阿比留草文字は、
漢字が日本に入ってくる遥かな古代から、
日本に存在していた。

神代文字とは、漢字が日本に入ってくる遥かな古代から、日本に存在していたとされる古代文字で、阿比留草文字はその神代文字の一種です。ここからいささか専門的な話になりますが、お付き合い願えれば幸いです。

 
 

◇ 伊勢神宮奉納文 ◇

 
 

伊勢神宮の神宮文庫に保管されている飛鳥時代からの奉納文は、神代文字で書かれています。解読された99点のうち57点は、阿比留草文字で書かれた奉納文です。歴史上で有名な舎人親王、藤原不比等、源頼朝らの名前で奉納されています。日本の神々は外来語(漢字)を嫌われたので、奉納文には神代文字を使って書かれたといわれています。これらは伊勢神宮文庫に大切に保管されてきたものですが、昭和48年に初めて一般公開されました。


※伊勢神宮文庫:内宮と下宮が所蔵していた文書、記録などのほか、1648年に設立された豊宮埼文庫と、1686年に設立された林崎文庫所蔵の図書を統合・保管するために明治39年(1906年)に設立された。

 
 

◇ 国東半島の磐座ペトログラフ ◇

1999年1月に発見された大分県国東半島の磐座に線刻された神代文字のペトログラフは、その大きさとともに、そこに刻まれた文字から世界の注目を集めました。

国東半島にあるペトログラフに線刻されている内容はーーーーー

そこをやき よきちほれ しもとく《阿比留草文字》

ヒノカミノリヨ フキアエス 二五ダイ《豊国文字》

フトマニ《出雲文字・法隆寺秘蔵文字》

つまり、第25代ウガヤフキアエズの命(富秋足中置天皇)が、フトマニで占ったところ、「そこを焼いて、良き地を掘れ、(そうすれば)霜が溶けるであろう」 というご神託が出た、ということなのです。「ヒノカミノリ」とは、日の神(天照大神)による神訓リ(ご神託)と解釈できます。この25代ウガヤフキアエズの命とは、神武天皇を初代とする大和王権以前に存在していたとされるウガヤフキアエズ王朝の25代目の王のことです。

「この天皇名は「皇統譜」には見当たらない。それはウガヤフキアエズ王朝が、神武天皇以前の王朝であるから、記紀などに記載がないのは当然である。」

「巨石のある場所は、地元の地理に詳しい人の案内なしでは行くことのできない『御陵みささぎ』だという。昔から数件の「御陵守」のサンカの末裔だけが知る場所であったという。サンカは縄文時代からの日本固有の伝統文化を維持していた高度な文化・経済集団で、神代文字を守ってきた。」

(吉田信啓・ユネスコ世界遺産委員会岩石芸術部門日本代表・日本ペトログラフ協会会長)

 
 

◇ 幣立神社の鏡石 ◇

現存する最古の神社といわれる熊本県上益城郡山都町の幣立神社の境内の地中から、御神体の鏡が発見されました。幣立神宮で発見された、このご神体の鏡といわれる石版にも、古代文字がきざまれており、日本ペトログラフ協会会長の吉田信啓氏は、それを漢字到来以前の神代文字存在の証明と語っています。

歴史学者や国語学者、考古学者のほとんどが一様に否定し、後世に作られたものだ、と言い張る神代文字群が、ペトログラフからはっきりと確認されているのだ。それらは現在わかっているだけでも、伊予文字・豊国文字・あひる文字・神山文字・アイヌ文字など四十種類以上の文字があって、またそれぞれの地方にあって、人々がそれらを知っていたからこそ、漢字が日本に入り、それを近畿大和王朝が採用し、統一国家としての日本で国字に制定した時点で、有識人を中心にきわめて早い時期に漢字が普及し、地方にまで波及したものと考えるのが筋であろう。

(吉田信啓氏 談)

 
 

その「鑑石」を解読してみると、表に豊国文字で「アソヒノオホカミ」とあり、裏面には「ひふみ祝詞」が阿比留草文字で書かれています。これほどに、多くの証拠が揃っているにもかかわらず、神代文字の存在は、日本の考古学他のアカデミズムの世界では、いまだに認められていません。神代文字は偽書、偽造の烙印を押されたままなのです。

 
 

◇ なぜ神代文字は封印されたのか ◇

いまの学問の世界での定説では、古代中国の殷の時代にあったとされる亀甲文字から漢字が生まれ、やがてそれが日本に輸入されて、その漢字から、平安時代にひらがなやカタカナがつくられたということになっています。その説の根拠は、斎部広成(いんべひろなり)という人が著した『古語拾遺』という古い時代の書物です。

その冒頭に「聞くところによると、上古の世は文字がなく、貴賤老少を問わず、口から口へ「伝えていた」と述べられているのです。たったそれだけのことです。」

『すべての命は元一つ」安藤姸雪著より

古事記成立が712年、日本書紀が720年、そして807年に古語拾遺が成立しています。渡来人である斎部氏が、日本の超古代の文明を隠蔽しようとしたという説を支持される方も多くおられるようです。それはその時の政権(天武持統、大和政権)に対する忖度も働いたのかもしれません。また、渡来人である自分たちの文化(漢字)から日本のひらがな、カタカナが生まれたとすることが、当時力を持っていた彼らの自然な主張だったのかもしれません。

その他に、力を得た渡来人から日本の超古代の叡智、言霊を守るために、意図的に隠されたともいわれています。(意図的にかくした説は、小笠原孝次著「龍宮の乙姫と浦島太郎(和器出版)」に詳しく説明されています。そして、言霊とはいかなるものかが、とても分かりやすく書かれているので、言霊学の入門書としては最適な書籍になります。)

太古に文字がなかったのではありません、広まっていなかったのです。神から降ろされた文字は神字です。言霊というエネルギーを持ち、奉納文として奏上すれば願いをかなえることもできます。おそらく秘密」にされ、ごく一部の人にしか伝えられていなかったと考えるのが自然です。

書家・安藤姸雪著『すべての命は元ひとつ』

 
 

◇ 神道系の大学の講師の方にお尋ねしてみました ◇

私はある時、神道系の大学の講師に阿比留草文字についてお聞きしてみたのです。すると「阿比留草文字は学会ではタブーなんですよ」 と苦笑いをして応えてもらえませんでした。

奉納文でこれまでに確認された99点のうち57点が阿比留草文字で書かれています。学会でのタブーは昭和28年発表の「芸林」に掲載された山田孝雄博士の神代文字偽作論文の存在にあるようです。山田教授とは、その当時、神宮皇學館学長で、伊勢神宮の神宮文庫館長も務められた学会の頂点にいた方です。

ーーーここからは勝手な妄想です。

「山田教授の神代文字偽作論は、今も学会で議論を許さないほどの影響力があるのか」と憤慨する一部の神代文字実在論の中で、少し考えてみると奇異な感じがしてきます。出処の定かでない奉納文を、伊勢神宮がかくも厳重に守るなどという発想を、果たして当時神道界のトップにいた人物が抱くでしょうか。

山田教授が論文を発表した昭和28年といえば、まだアメリカ軍占領の影響が強い時期です。何らかの圧力があり、神代文字を否定した論文を書かざるを得なかったのではないか、アメリカ占領下で、どれほどの日本の宝が破壊され隠されてしまったか、枚挙に暇ありません。(言霊学の権威であった山腰明將氏は、戦後まもなく、なぞの交通事故で亡くなり、自宅が放火され、言霊学の研究資料はことごとく消失してしまいました。)

山田教授も被害者だったのかもしれません。山田教授の論文発表から20年後の昭和48年に、神代文字で書かれた伊勢神宮文庫の奉納文が一般公開されたのには、深い意味があるのではないでしょうか。表立って対抗するのではなく「これを見て判断して下さい」静かに示されている、そんな気がしています。

◇ 言霊学の立場から ◇

『日文草文字(ひふみくさもじ)と云われる竜形文字は『陸奥のしのぶ文字刷り』と古歌に詠まれている神代文字の代表的なものであって、その文字の姿の説明として「女の髪のおどろに乱れたる如き」とあるからには「しのぶ文字刷り」とは竜形文字のことであり、またこの文字が神道の奥義(道の奥)を偲ぶよすがになるものであるわけである。(ここで竜形文字といわれているのは阿比留草文字のことです)

その奥義である言霊(げんれい)を形に示す手法が八つの山津見(やまつみ)の原理であることとなる。筆者は今のところこの山津見八神(やまつみはっしん)は八種類の神代文字ではなかろうかと考えている。竹内文献やウエツフミなどの古文献はいずれも神代仮名文字で記されたもので、その種類を詳しく分けると数十種類、数百通りを数えられる。石上神宮の「十種の神宝(とくさのかんだから)」の中に「蛇の比礼(おろちのひれ)」「百足の比れ(むかでのひれ)」「蜂の比礼」「種々ものの比礼(くさぐさのもののひれ)」とあるのは四種類の典型的な神代文字のことである。比礼(比良ひら・牧ひら・平ひら)は霊顕(ひれ)の意義、すなわち文字である。蛇おろちの比礼は竜形文字であり、百足むかでの比礼は楔形文字、鳥跡文字であり、鉢の比礼は大八島文字、あひる文字、対馬文字であり、種々物の比礼は象形文字である。

小笠原孝次著『言霊百神』(和器出版)より

 
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