「天壇斗」との出会い
〜自分を鎮めるために、純粋に自分のために〜

 
 

阿比留草文字との出会いから天壇斗の誕生へと至る間には、どうしても私自身が直面しなくてならない難題があり、そのために起きた出来事であったのだと今になっては思うのですが、その渦中にあった当時は自分の中で何が起きているのかわからず、五里霧中の中で途方にくれているような気持ちだったのかもしれません。それは2018年のことです。

 
 

小さい頃から、自分の中から湧いてきてしまう思いや感情に振り回されてしまい、自家中毒のように自分を苛む傾向がありました。それが長年様々な経験を経て、色々な方法にトライし続けた成果もあり、感情にとらわれる時間は短くなったと実感できるようになっていました。内心「成長できたな」と自負していた私に、全く予想もしていなかった状態がやってきてしまったのです。

言わなくていいことが勝手に口をついて出てくる。感情の抑制がきかない。そして、その言葉や感情の出方に自分自身が驚いてしまうのです。当然のことながら、それは自己否定の始まりです。「心を鎮めるため」に積み重ねてきたはずの習慣や方法もまったく役には立たず、私の中の〝嵐〟は激しさを増すばかり。「このままでは周りも自分も傷つくだけだ。何もかも放りだして逃げ出したい‥‥‥」そう思いながらも、実際には逃げ出すことも落ち着くことも出来ない日が続いてある日のこと、ふと作業机の片隅に無造作に置かれたガラスのペンダントヘッドが目に入ったのです。このペンダントヘッドが、私を天壇斗の作り手へと誘うきっかけになったのですが、そのときはもちろん、そんなことを夢想すらしていなかったのです。

すべての答えは自分自身の中にある。
目の前に起こる出来事には、すべて意味がある。

それは一年以上前にガラス工芸作家さんの工房で見つけていつか彫りたいと思い買い求め、なぜかそのまま放置されていたペンダントヘッドでした。作業机の上にそんなものがあることすら忘れていたのです。もしキチンと引き出しの中などにしまわれていたら、あることにすら気がつかなかったかもしれません。たまには、このズボラな性格も役に立つことがあるのです。

見つけたその瞬間、つんのめるような強い衝動にかられました——「伊邪那岐大神の印」をここに彫りたい!

すぐにそのペンダントヘッドの大きさ形に合わせて原稿をつくり、ガラスに貼る原稿をつくり、カットから彫りまで一気に済ますと、そのままペンダントヘッドを握りしめて、電車を乗り継いで浅草橋に向かったことを覚えています。ペンダント用の部材を浅草橋にあるアクセサリー部材専門店の1階から6階まで捜しまわって見つけて家に帰ると、部材を袋から出すのももどかしく、買ってきた紐を付けてペンダントにし、すぐさま首にかけました。

すっかり暗くなり、朝から食事もしていませんでしたが、気にもなりません。ペンダントを身につけるとすぐに効果が表れてきました。泡立ち混乱しどうしようもなかった気持ちが鎮まっていきます。気持ちが整理され落ち着いていくのがはっきりとわかりました。

20年以上硝子工芸に携わってきた中で、「自分を鎮めるために、純粋に自分のために」作品を作ったのはこのときが初めてのことでした。そのときは何が起きたのか、なぜ心が制御できないほどに乱れ、それが天壇斗との出会いによって静まり→鎮まり整っていったのか、言葉にはならなかったのですが、今はよくわかるような気がしています。

あの頃の私は、表面的な意識や感情の満足を求めていました。それ故に「それは違う!」と真我、本当の自分に刃を突き付けられたのだ、あの混乱は自分で引き起こしたものであり、それは私が本当の「わたし」を生きるために必要なことだったのだと。今も自分の中に不調和なものが生まれる度に自分に問うています。

何を「わたし(真我)」は「私」に告げてくれているのだろう。

「すべての答えは自分自身の中にある」「目の前に起こる出来事には、すべて意味がある」

そんな言葉を幾度となく味わうように、自分に言い聞かせている私です。

 
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