日本語の持つ深淵さに惹かれて

 

大学1年の夏、東京大学の文化人類学の教授が通っていた大学で講義された特別集中セミナーを受講したことがありました。外国語学部の学生で全くの門外漢でしたが、その集中講義は一回で1単位いただけるというとても美味しい講義でしたから、興味云々関係なく受けることにしました。

真夏のとても暑い日でした。クーラーの効いた大講堂で、出席も取らない講義の気楽さから、時間をやり過ごすことしか考えていなかった私は「この後いつもの喫茶店に行こうか」などと、友人達とたあいのないおしゃべりをしていました。細身の小柄な(遠くからなので小柄に見えただけかもしれませんが)まだ40代前半とおぼしきその東大の教授が話し始めた途端に、私の頭からは、お昼ご飯も喫茶店も吹き飛んでしまいました。

そこで語られた内容は初めて耳にすることでした。詳しい内容は忘れてしまいましたが、日本語は音に意味がある表音文字、一音一音に意味があり、しかも複数の意味を持つ言語である、それは世界の言語の中で特異なものである、というような内容の講義でした。恐れ多くもその教授は、現上皇陛下の皇太子時代の論文(卒論?)の内容を話されました。

日本語で「ち」の音は方向をあらわします。ですから「あっち」といえば「あの方向」遠い方向、「こっち」といえば「こちらの方向』自分に近い方をあらわします。「み」とは尊いとか大切なものを意味する音です。ですから「みかん」というのは柑橘系の果物の中で特に美味しいとか、尊い果物を「みかん」と呼ぶのです。そして「みち」は、尊いを表す音「み」と方向を表す「ち」で出来ています。「みち」は尊い方向に誘ってくれるもの、という意味を持つ言葉といえます。

このお話を聞いて、いつも使っている言葉を一音一音で考えてみました。その時の私にはまったく深い意味は分かりませんでしたが、日本語って素晴らしい、そう感じた初めての体験でした。

それから人生の紆余曲折を経て、甲府の七澤賢治先生の薫陶を受けさせていただく流れをいただいたのは、その40年以上後のことになります。まさに「おみち」(白川伯家神道)に出会ったのです。そこで日本文明の深遠さに触れ、言霊学と神代文字の一種「アヒルクサ文字』に出会いました。

もともとガラス工芸に携わっていた私は、七澤賢治先生のご指導のもと、様々なアヒルクサ文字の御神器を彫らせていただくことになります。このアヒルクサ文字の御神器を彫らせていただく流れをいただいたのは、決して偶然ではなく、大層おこがましく恐縮ですが、必然であった、そう感じています。御神器を彫らせていただくという経験がなければ、天壇斗を彫ることは決して無かったであろうと思うのです。

こうして、思い起こしていくと、50年近くまえから、ここに至る布石を色々なところでいただいていたことが腑に落ちていきます。それは奇跡と思えてきます。

 

関連記事

PAGE TOP